東京的なるもの と その信者たちの衰退

「田舎のジャスコは「擬似東京」!渋谷=三重のジャスコ。レベル的に。」
何でもある田舎のジャスコと、東京を知る人と知らない人との格差
トカイとイナカとジャスコ


上記のまとめ、エントリを受けて。

ジャスコがもたらすもの

 上記のエントリなどで「ジャスコ」は、いわゆる複合商業施設の代名詞のように扱われているように思う。ショッピングセンターをはじめ飲食施設や映画館などの娯楽施設といった複数の施設が集まっており、ファッション、CD、書籍などを扱うショップ、ドラッグストア、カフェ、映画館やゲームセンターなどが併設されている場合もある。およそ生活に必要なショップが一箇所に揃い、一つの街のような体を成すこのような業態は、「そこにいけばたいていのものが揃う」というメリットを背景にして、集客力向上のために採用されている。


 ジャスコ的な施設は大きく分けて二つの恩恵をもたらす。一つは従来のスーパーマーケットのように生活品を一度に調達出来ること。一つは、ファッションや映画、音楽といった東京的な文化を享受できること。この、後者の機能を指して、「 「擬似東京」」ということもできるだろう。*1この機能を以って、ジャスコは東京に繋がっている。より高度で、文化的で、進歩的で、洗練された街、東京に。東京的な文化に憧れる地方の人々は、ジャスコで東京を夢見る。


 しかし、彼らは、何を基に「本物の東京」を夢見るのだろう?私は、メディアだと思っている。テレビ、雑誌、映画、ネットから得ることが出来る断片的な情報をもとに、地方の人々は理想の東京を脳内に形作る。例えば月9ドラマのワンシーンから。雰囲気のあるディナーを。琥珀色のシャンパンに浮かぶ気泡を。夜景をバックにした素敵な告白を。東京的な文化に包まれ、東京的なファッションを身につけた自分を。完璧に理想的で、そしてだからこそ歪な、東京の偶像を。


 そして、これが今回書きたかったことだが、この構図は宗教にとてもよく似ている。

「東京的なるもの」を信仰する敬虔な信者としての田舎者

 メディアは実に効率的に「東京的なるもの」がいかに素晴らしいか布教してきた。進歩的で今風の人間とは、敬虔な「東京的なるもの教徒」とはどのようなものか解りやすく説明するために様々な戒律も作った。持ち家を、車を、学歴を、一流企業を、ブランドを、マナーを、音楽を、映画を、書籍を、所有し、収集するべきだと戒律を定め、代金をせしめた。そのような修行を積むことによって幸福が訪れますと熱心に、「大量宣伝・大量販売」と言う名の布教を続けた。


 この過程で、あらゆるものに「付加価値」がつけられる。東京と言う街は 付加価値の坩堝として、"ただ物体として都市であるだけでなく、あらゆるものに何らかの付加価値、メタ情報を付加されているようになった。付加価値を生産し続ける巨大な工場として東京は機能している。


 このような宗教活動の中で、ジャスコは教会の役割を果たす。地方に「東京的なるもの」を信仰するための窓となって展開し、人々の信仰心を満たした。今日、この努力が実り、地方と東京のタイムラグがほとんど無くなるまで、このネットワークは発展を遂げた。東京で新たな戒律が定まると、地方はすぐさまそれに倣うことができるようになった。なんでも東京のように出来る僕たちの理想的な町。ファスト風土が田舎を侵略する。


 しかし、ジャスコがもたらすものはあくまで本物の模倣、コピーでしかない。というより、ジャスコは東京のコピーであるからこそ、コピーできるものしか扱うことが出来ない。それはファッションであったり、音楽であったり、ゲームであったり、映画であったり、書籍であったりする。そして、人々はコピーでは満足できない。。 「本物」信仰は根深い人間的本能である。だから、東京に憧れ続ける。物質としては地方にいながらにして同様の物が手に入るというのに東京に憧れ続ける女子高生のように。

「東京的なるもの」教の衰退

 さて、敬虔なる田舎者が熱心に信仰したおかげで、東京と地方のタイムラグがほとんど無くなった。しかしそのこと自身が、「東京的なるもの」への憧れを狂わせ始めている。


 ラグがなくなったこと、戒律が複雑化したこと、若者にお金が行き渡りにくい状況であることなどが相まって、東京在住でも地方在住でも、都会的なるものを実践するのはへの幻想が破綻しかけているのだ。ここでいう都会的なるものとは先述のとおり、東京をメッカにしてコピーされていく、ファッションや音楽などの消費物だ。偶像が壊れるとそのような消費は減る。これが昨今のメディアのいう「最近の若者は物欲への願望が薄れている」「若者の○○離れ」などの警鐘の正体であると思う。


 しかしこれはある意味で当たり前のことだ。普通の宗教は死後の安楽を求めて行われるのだが、「東京的なるもの」教は生きている間の幸せを説く。言い換えると、従来の宗教では来世のために今世頑張れと教え、東京なるもの教は将来のために今、苦労せよと説く。


その一方、いろいろあってメディアが報じる「歪な理想」が実は存在しないんじゃないか、と信徒たちが肌で実感し始めた。今努力できるのはこのあと幸せになれる期待が、努力が報われるのだという展望あるからだ。将来の幸せという偶像が打ち砕かれたとき、若いうちから「徳」を積もうとする若者はどれほどいるだろう。


 その上、熱心に教義に従ってきた田舎者たち(≠地方在住者)の財布は疲弊しきっている。徳を積めば幸せになれるのだ、いくらでもお布施を払うがいい、と言ったところで、財布は空だし、懐も寒い。ならば、心も「空」にして欲を捨て、宗教を捨てるというのは、むしろ合理的な判断のように思えるのだが、どうだろうか。



蛇足

 あと気づいたことを適当に書く。

 そういえば東京にはジャスコ的なものがないね。街そのものが複合商業施設の体だし、大体土地代が高いからデカいハコモノなんて置けないよね。移動手段が主に電車だから大きい買い物は出来ないし。土地代、交通手段が原因で都会と田舎では有効な手段が違うんだろうね。


 東京的なるもの教が衰退しても、東京への人口流入はしばらく続くと思う。だって車が要らないもの。お年寄りが増えてきたら東京の高度に発達したインフラは魅力的に映るかもだし、第一子供が東京で働いてたら近くに住んで他方が安心できるよね。これ以上過密されんのほんと困るんだけど。


 コピーできるのになんでお金がせしめられたかってパッケージでそれ以上コピーできないよう止めてたからだよね。でもCDはコピーできるようになったし、映画は録画できるようになったし、ゲームはマジコンが出回るし、書籍は中古とかデジタル万引きとかあるし。動画や音楽はyoutubeやニコ動でアマチュアでもいいモノはいくらでもあるし、テキスト情報と言う意味だともっと手軽に手に入るね。だからこの辺はそのうち破綻するのかな、と思うよ。既存業界はコピーできないよう強化する方針みたいだけど、いたちごっこだと思うよ。


 ファスト風土をつくるにもある程度の人口が必要だ。このまま地方の人口が減るとファスト風土を維持するコスとが払えないかもしれないね。今も、人口が少ないとか何らかの理由で採算が取れないような土地では、こういう東京なるもの教そのものが贅沢な人たちの戯言にしか思えないかもしれないね。
 

 どれだけインフラが高度になったって、人口が増えれば利用者の密度は上がるわけで、人間がたくさんいると衝突する機会も増えるわけで、すると外に出る人ほど住みにくい環境になると思う。つまり、若い人ほど東京で生活するのはダルいなーとか思うようになるんじゃないかな。東京は遊ぶ場所、暮らす場所ではない、って感じで。まあそれは今もあるか。


 元から東京に住んでる人にとって、メディアが作る東京と、自分たちが暮らす東京にはギャップがありすぎて、上手く信仰できないかもしれない。逆に千葉とか埼玉とかベッドタウンは東京ではないけど、仕事や遊びで東京に来るよ的な人のほうが、より効率的に布教できる対象といえるかもしれないと思うよ。


 あ、最後に、私は四国で生まれて東京に住んでるよ。地方には仕事が無いからね。薄給だから結婚もしにくいし、出産も難しいかな。核家族では祖父母に育児をシェアしてもらうことも難しいし。最近四国に吉野屋が出来たよ!やったね!セブンイレブンはまだないけどローソンやファミリーマートは増えたんだよ。便利になったね。素敵だと、思うよ。

*1:YANA1945 は前者をヨーカドー的であると表現している。「前者が都市部での日常を売る店なら後者は田舎で非日常=祝祭を売る店だ。」とも言っている。